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05/05/25
アーバンアウトドアライフ

 いつも京王線の列車で通り過ぎるだけの明大前界隈へ今日は自転車で出かける。
  京王線の車窓からは密集したビルと線路と並行して走る首都高4号線の高架ばかりしか目に入らないが、MTBのハンドルにマウントしたGPSを頼りに、わざと路地裏のような道ばかり選んで行くと、意外に緑が多いことに驚いた。
  井の頭通り沿いにある輸入スクーター専門のショップでMTBからプジョーのモペットに乗り換えて、さらに永福界隈まで裏通りを行くと、あちこちにこんもりとした森や林をひかえた公園や神社が目につく。そんな公園の一つに乗り入れて気の置けない古くからの仕事仲間とのんびり撮影仕事をしていると、フランス製のモペットが被写体ということもあって、ここが東京ではなくどこかヨーロッパの瀟洒な都市の一角のような気がしてくる。
  東京も鉄道の駅の周辺や幹線道路沿いばかりに目を向けていると無機質で殺伐とした風景ばかりだが、少し足を伸ばしてみれば意外に緑が多くて静かな場所がある。そんな都心の緑に目を向けて、そこを楽しむことを綴った名著がある。『アーバンアウトドアライフ』、今は亡き芦沢一洋さんの珠玉の一冊だ。
  もう20年もの昔、登山専門誌の見習い編集者としてアウトドアの世界に足を踏み込んだとき、その雑誌のアートディレクターを務めておられたのが芦沢一洋さんだった。1960年代後半に、バックパッキングというアメリカ発祥の新しいアウトドアライフのスタイルを紹介し、それまで社会人登山や学生山岳部ばかりが目立つ泥臭い日本のアウトドアシーンに清新な風を注ぎ込んだ立役者だった。
  山岳部出身者といえば、街にあってもどこか垢抜けず、無骨さがトレードマークだったりしていた頃、芦沢さんはスタイリッシュで、話し方やその内容、そして語り口も洗練された「ジェントル」という言葉がぴったりの人だった。
  環七通りにほど近い自宅に表紙の見本刷りを持って訪ねると、狭いけれどとても心地よく木々が植えられた庭を広がりがあるように見えるように設計された居間に案内されて、冷たい飲み物をいただいた。そこが大気汚染では一二を争う幹線道路の間近であることを完全に忘れさせてしまう静けさと木漏れ日に、デリカシーとは程遠い典型的な「山ヤ」だったぼくもなんともいえない安らぎを感じたものだった。その自宅も「アーバンアウトドアライフ」の中で紹介されている。
  また、他の出版社の仕事も忙しくこなされていた芦沢さんには、よく外でも原稿を届けたり引き取りに伺った。よく指定されて行ったのが、新宿の京王プラザホテルのラウンジ「樹林」だった。ここも広いガラス窓の向こうにまばらだけれど涼しげな樹林がある都会のオアシスのようなところで、もちろん本の中でも紹介されている。
  アメリカンアウトドアの世界とその精神を日本に初めて紹介された芦沢さんは、ダイナミックな自然の中で遊んで学ぶことにかけては大ベテランだった。さらに身近な都会の中でも自然のテイストを感じ取って、大自然の中にいるように過ごす名人だった。
  「アルプスやら、ヒマラヤやら、ヨセミテやらに行かなければ自然を感じられないというのは、貧しい精神だよ。身近なところにある自然を探して、感じ取って、それもヒマラヤの奥地にいるときと同じように楽しめてこそ、ほんとのアウトドアマンじゃないか」
  都会の真ん中のとてものんびりした公園でカラスの鳴き声を聞いていると、そんな今は亡き大先輩の言葉がふいに蘇ってきた。

―― uchida

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05/05/21
蝶が岳の夜明け

 先週の日曜日、大学時代の友人の結婚式に出席した。
  もう卒業してから20年以上経ち、当時の親しかった仲間たちの中では最後に結婚式を迎えた新郎は45歳初婚で、新婦も40歳で初婚。脂の乗った大人どうしの結婚式は、落ち着いていて、しんみりと幸せをかみ締めるようないいセレモニーだった。
  惜しむらくは、新郎の両親がすでにこの世になく、もともと慎重で優しくて、頼りがいのある仲間内ではいちばん最初に所帯を持ってもおかしくなかった彼が、 ようやくその風采に合った家庭を持つことになったことをその場でともに喜べなかったことだ。でも、のんびりおっとりしたあいつらしいと、きっと彼岸で喜ん でいることだろう。
  男も女も自己主張が激しい世の中で、じっと静かに文句も言わず着実に歩み続け、互いに自然にひかれて共同で生活を営んでいこうと決意した大人の二人。浮き 草のように行き当たりばったりで、自分の人生を軽々しく博打にかけるような生き方をしてきた身の上には、なんだか二人がとても神々しくさえ見えた。
  式の前日、熊野に住む仲間の一人が上京したので、彼に付き合って、学生時代に住んでいた高円寺界隈を歩いたり、神保町の大学を訪ねた。高円寺の彼のア パートは瓦屋根にサンルーフが切ってある当時としてはモダンに見えたバストイレ付きの部屋で、築58年の傾いたあばらやだったぼくの中野のアパートから歩 いて20分程度の距離だった。そんなわけで、大学に入学して彼と親しくなると、ほとんどどちらが自分のアパートだったかわからないほど、彼の快適な部屋に 居座って、勉強の邪魔ばかりしていた。
  彼とはその後も不思議に縁があって、今でも時々彼の住む熊野を訪ねたりしているが、一緒に思い出深い場所を巡ると、記憶の彼方にあった学生時代の思い出がつい昨日のことのようによみがえってくる。
  司法試験を目指してがんばっていた彼に対して、当時のぼくは山登りと旅に明け暮れていて、ちょうど正反対の生活を送っていた。だけど、なぜか気があった。
  その熊野の友人は30歳直前までがんばったが、結局、司法試験への挑戦を諦めることになった。
  彼が高円寺から田舎に戻ることにしたとき、今になって結婚式を挙げた友人が運送会社に勤めていたので、引越しの手配をした。そして、ぼくとよく山に行っていたもう一人の友人も手伝いに来て、四人で引越し作業をすることになった。
  当時、フリーランスの身で(今でもそうだが)、浮き草のように不安定な生活をしていたぼくは、戦友を失うような気がして、無性に寂しくて、ついつい前夜の 送別会で飲みすぎた。そして、肝心の引越し当日は、みんなが忙しく立ち働く中で、青い顔をして自分がお荷物になってしまった。
  「内田は、Wが田舎に帰ってしまったら寂しいよな。10年も兄弟のように仲良くしてたんだものな」と、戦力外のぼくに言ったのが、今では当の大手運送会社の事業所長で、めでたく45歳の新郎になった奴だった。
  結婚式前夜、熊野の友人が宿をとった青山で、もう一人の山登りの相棒を呼び出して、三人で飲んだ。熊野の友人は風邪気味で、翌日のことを考えて先に宿に引き取り、今度は、山の相棒と場所を変えて続きを飲んだ。
  彼とは、奥多摩、奥秩父、八ヶ岳、北アルプスといろんな山に登った。
  あれは大学2年の夏だったか、後立山を縦走して槍ヶ岳まで行く計画を立てた。
  燕岳から入山し、稜線を辿って順調に進んでいったのだが、進むにつれて天気が思わしくなくなってきた。難所を控えた槍ヶ岳に向かうのは無理と途中で判断して、上高地に下山するために蝶が岳のほうに向かった。
  だが、その蝶が岳の稜線に差し掛かったところで、本格的な悪天に飲み込まれてしまった。強風と雨に加え猛烈な雷で、遮るもののない稜線にいたぼくたちの髪の毛は逆立ち、半ば死を覚悟した。
  なんとか山小屋に逃げ込もうと互いに必死で励ましあいながら、ようやく砲火の真っ只中のような雷をかいくぐって小屋にたどり着いた。
  小屋に入った途端に雷雨は止んで、晴れ間が顔を出した。
  ほっとして、傍らの幕営場にテントを張り、朝から何も食べていない空腹の体に、とりあえず命拾いしたことを祝してビールを流し込むと、これが異様に効いて しまった。なにしろ、空き腹の上に疲労困憊していて、しかもそこは標高3000mの高山の天辺だった。そのまま二人とも昏睡してしまった。
  どれぐらい時間が経ったのかわからないが、相棒が先に目を覚まし、ぼくを揺り起こした。
  「おい、どうも夜明けのようだぞ」
  ぼくたちは、ふらふらしながらテントから這い出した。そして、そこに信じられない光景を見た。眼下はびっしりと綿を敷き詰めたような雲海、遠方に、富士山と中央アルプス、御岳、南アルプス、八ヶ岳、浅間山が顔を出し、今まさに、東の彼方から朝日が昇りつつあった。
  雲海の上に顔を出したピークに朝日が当たると、ダイヤモンドのように輝いた。そして、今度は雲海自体が朱に染まり、世界が燃え上がった。
  ただただぼくたちはその光景に魅入られていた。
  「また一緒に山に登ろうぜ」
  バーの止まり木に腰掛けてウイスキーのグラスを傾けながら、相棒が言った。
  「あの蝶が岳の朝日がもう一度見てえよ」
  「俺もだよ……」

―― uchida

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05/05/07
人間のペース

 もう30年も付き合ってきた花粉症。この数年はあまり酷い症状もなく、自然治癒に向かって行っているものと楽観していたが、なんのなんの今年はしっかりと旧交を温めに帰ってきてくださった。
  クシャミや目のかゆみ、喉の痛みもさることながら、思考力が大幅に低下して、集中力もなくなり、物事全般に対する意欲が減退してしまうのが辛い。3月の初 めから4月の下旬まで、ほとんどルーティンのこなし仕事だけを片付けるのが精一杯で、気の利いたことなど何一つできなかった。しかもこんなときに限って花 粉にまみれるような表での肉体労働が続き、なんとか取材の間だけは意識を持ちこたえているけれど、いったん気が抜けてしまうとそのまま魂まで行方不明と いったありさま。
  この二月の間に、ぼくが不義理や失礼を働いてしまった人がいたら、それは花粉症による心神耗弱のためだったということで、どうぞお許しを……。
  それにしても、ぼくのような基本的に世の中にあってもなくてもいいようなエンタテイメント系の仕事の人間なら花粉症でぼんやりしていても、生産性が落ちて 自分の明日の生活が心配になる程度で世間に迷惑をかけることもたいしてないが、先日のJR西日本の事故のように人の命を預かる仕事では運営者側のコンディ ションや体制の陥穽なんてことを言っていられない。
  あの事故の後、4月29日に京都から登りの新幹線に乗ったが、指定席の乗客は数人のみ。連休初日で帰省とは逆方向ということもあっただろうが、それにしてもあまりにも乗客が少なく、事故による鉄道離れもあるのではないかと思わされた。
  連休の前半は遣り残しの仕事を片付けたり、雑用が重なってずっと自宅にいたが、5日から久しぶりに茨城の実家に帰省している。こちらには母親と妹一家がい るのだが、妹の家で無線LANを導入したというので、これで茨城でも快適にネットにアクセスできると期待して出かけてきた。
  ところが、新しモノ好きながらメカには疎くて設定は他人まかせという妹夫婦は、無線LANの設定の詳細を何も知らず、アクセスするためのパスワードも忘れ てしまっていて、せっかくのブロードバンド環境もこちらは使えず仕舞い。仕方ないのでAirEdgeを繋ごうとしたら、これはもう町中がサービス範囲外。 妹の家で有線LAN環境を利用しようとすると、回線が一つしかなく、これが子供たちがはしゃぎまわっている今でしか使えず、結局、安心してPCを開くこと のできる母親の実家のほうで、古い回線でダイアルアップしてアナログモデムによる接続となってしまった。
  ブロードバンドの常時接続に慣れているため、メールチェックするにもいちいち回線を繋がなければならないのはいかにも億劫だし、何よりその都度通話料が掛 かってしまうのがばかばかしい。skypeを使ってのミーティングなども予定していたのだが、それも諦めて、休みは休みらしくネットとも距離を置いてのん びりすることにした。
  はじめのうちは不自由を感じていたが、田舎のペースに慣れてくると、自分がテクノロジーに急かされていたことに気づかされる。新しい技術によって便利に なったり合理化されたら、その分、時間的なゆとりができるから、より人間的な営みの深みが増す……はずだったのに、知らず知らずのうちに「より新しい技術 の開発や導入、さらなる合理化」というパラノイアに陥って、自分を追い詰めていたことに気づかされる。
  JR 西日本の事故もそんなパラノイアに嵌ってしまった人間社会が招いた悲劇だろう。たった数分の時間短縮のために汲々としたがためにあれほどの人数の人が亡く なってしまったなんともたとえようのないバカバカしさ。マスコミはここぞとばかりに重箱の隅をつついてJR西日本を叩いているが、そもそも合理化を推し進 めるように世間の雰囲気を誘導した責任が彼らにもあるはずだし、あの扇情的な体質はパラノイア社会の元凶そのものだ。
  しばらく前にソローの『森の生活』について触れたが、これを久しぶりに読み返している。さらに図らずも時間ができたので、なにげなくカバンに詰めて持ってきていた『エリアーデ幻想小説全集』も拾い読みしている。
  みんなが寝静まった真夜中や遠くから一番鳥の鳴き声が響いてくる早朝に、それぞれしみじみとした味わいの本を呼んでいると、他愛もない一つ一つの出来事に じっくりと時間をかけて向き合うことが少なくなっていたことに気づかされる。そして、他愛ないと思ってやり過ごしてしまっているさまざまなことが、じつは 人の心や体にとってとても大切なものであることを思い知らされる。
  インターネット草創期には、ぼくも「ドッグイヤー」のハイテンションなペースが心地よくて、走り続ける快感をここに書きもした。それはそれでいいし、まだ まだ元気に駆け回っていたいと思う。でも、たまには落ち着いて他愛もないことに現を抜かす時間も持ちたいと思う。「忙中閑あり」……パラノイア的忙しさに あるときこそ、頻繁に他愛もないことに現を抜かす時間が必要なのかもしれない。 

―― uchida

 

 

 

 

 

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