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ever

glove

 

05/09/29
あっちこっち

 前回、「お盆も過ぎて、朝晩はすっかり過ごしやすくなった……」なんて書いたが、なんのなんのしっかりと残暑はやってきて、今年もまたその真っ只中にオートバイで走り回る羽目になった。
  今月に入って最初の週は松本から高山、飛騨古川、郡上八幡と中部の小京都を巡り、そのまま能登へと向かった。平湯のあたりなら少しは涼しいかと期待したが、平地の残暑がアメーバのように這い登り、この高原にも陽炎が揺らめいて、自慢の温泉よりは川に飛び込みたくなった。
  丹生川の千光寺では、せっかく円空仏との再会を楽しみにしていたのに、蝉時雨の参道をたどるだけで朦朧としてしまい、さらには仏さんそっちのけの騒々しい老人クラブの団体と一緒になってしまって、じっくりのんびり一つ一つの仏さんと対話するどころではなかった(もっともそのおかげで、今度は人の訪れない冬に再訪しようと固く心に決められたが)。
  郡上八幡の町もけだるい熱帯のように風景が熱波で揺らぎ、いつも見かける町の中心を貫く清流に飛び込む子供たちの姿も皆無だった。
  能登へ抜け、まずは西海岸の千里浜を走る。名物の浜辺小屋の一つでハマグリと白貝をつつきながらコーラなぞ飲んでいると、「この暑さじゃオートバイでも気持ちよくないでしょ」と、おかみさんに労われる。こちらがバイク乗りだと思うと「夏はオートバイで走るには最高だね」なんて決まり文句を吐かれるのが相場だが、そんな言葉がいかにもうそ臭く思えるほど能登の残暑は厳しかった。
  輪島では夜に御陣乗太古の実演が道の駅であるというので、あの勇壮な太鼓を聞けば暑気払いになるかと思い、宿の下駄を突っ掛けて会場の道の駅(なんと鉄道が廃線になって旧輪島駅がそのまま道の駅になっていた)までカランコロンと出かけていった。
  20数年前に初めて能登を訪れたとき、観光会館の舞台で演奏された御陣乗太鼓の迫力に圧倒された。戦国時代に輪島の町を陥れようとしていた軍勢が、磯で髪を振り乱して雷のように太鼓を叩く「鬼」の姿を見つけ、尻尾を巻いて逃げ帰ったという逸話が残る勇壮な太古で、久しぶりにその迫力を期待して行ったのだが、今の演奏は妙に観光ズレして手際よく演奏が進められていて、昔の素朴さ、粗野なところが独特の迫力がすっかりスポイルされてしまっていた。広く区画整理された商店街に向かって開けた舞台も、本来岸壁が取り囲む狭い入り江で岩の反響が迫力を増幅させていたはずのものを逆に拡散してしまい、気抜けしたビールのように味けなくてがっがりした。演奏を最後まで聴く気力もなくして、夜も更けてきたというのに茹だるような暑さの中を宿まで帰ると、久しぶりに履いた下駄のために痛い鼻緒ずれができてしまった。
  この旅でほのぼのと印象に残ったのは、能登の突端近くの木の浦で味わった本格コーヒーの風味だった。
  能登半島の突端に近いまさに最果ての小さな入り江に下りていくと、朝靄に混じってコーヒーを焙煎する煙が漂ってきて、磯の香りと絶妙に交じり合う。その香りに引き寄せられるように、小さな漁師小屋に近づくと、煙突から紫の煙が立ち上っている。
  大きいけれど威圧感はなくて愛らしいレトリバーが戸口で迎えてくれて、その小屋の中に入ると、奥では小柄な若い女性が一心不乱に焙煎機と向き合っている。手前の試飲できるスペースには溌剌とした若者がいて、彼が応対してくれた。いくつかあるコーヒーのうちからスタンダードの「舟小屋ブレンド」を選ぶと、若者がそのオーダーを奥の女性に伝え、一時、焙煎の手を休めてドリップしてくれた。そのコーヒーは、わざわざその一口を味わうためにここまでやってきてもいいくらい旨かった。

 能登から戻ると、今度は大町から白馬、小谷と北信を巡り、妙高に抜けた。
  台風一過の空に浮かび上がる北アルプスの雄姿を期待していたのだが、台風は秋空を運んでくる代わりに湿った南海の空気を引きずってきていて、残念ながら北アルプスはどんよりした雲に飲み込まれていた。空気も北信らしい爽やかさがなく、じっとりとしている。ぼくは、高校3年の夏休みに、一ヶ月この場所……白馬村の神城……に滞在した。海沿いの町に生まれ育ったぼくには、目の前に迫る3000mクラスの山々の風景と心地よい高原の風にすっかり魅了された。そして、ここはぼくにとって第二の故郷のような場所となったが、その後、いつ訪れても清清しい空気に包まれて、あの輝いていた高校時代の夏を思い出させてくれた。だが、蒸し暑い残暑が風景の色合いを変えてしまった今年の白馬は、ぼくの思い出に残る土地の記憶とは似ても似つかず、まるで土地から拒絶されたように感じて妙に寂しかった。
  小谷から雨飾山の麓まで登っていくと、ようやく空気は涼しくなって秋の気配が感じられた。山の神はぼくの落胆を少しは汲み取ってくれたのか、翌日の早朝には一瞬の間だけだが雲を晴らして雨飾山の全貌を見せてくれた。
  この旅は来年のツーリングマップル中部北陸の表紙撮影が主目的だったが、雨飾山が姿を見せてくれたことでなんとかそれを果たすことができた。

 北信の旅から戻り、中一日置いて、今度は若狭へと向かった。
 北陸はあいかわらずのフェーン現象で、前回よりもさらに残暑が厳しかった。
  今回は若狭の定宿「PAMCO湖上館」でRyuさんと落ち合った。Ryu.Takahashiさんはニュージーランドのシーカヤックガイド国家資格を保持している唯一の日本人で、普段はエイベルタズマンエリアでガイドをされている。今年は、夏から秋にかけて日本に滞在して、日本のプロガイドにレスキューやガイディングを指導するワークショップを開催している。ちょうど、前日まで若狭でプロガイドワークショップを開き、その後、PAMCOで待ち合わせしたというわけだ。
  じつは飛び切りきれいな若狭の海でマンツーマンにシーカヤックの御指導を願おうといった思惑があったのだが、真冬のNZから炎暑の日本にやってきてハードにスケジュールをこなしていたRyuさんは、さすがに海へ漕ぎ出す元気が残っていなかった。
  そこで、急遽思惑を捨てて、若狭の自然と文化を堪能することに。
  まずはPAMCOの御主人、田辺一彦さんに舟を出してもらって宿の目の前に広がる水月湖に。三方五湖の一つ水月湖は周囲に人造物が少なく、PAMCOからは対岸には人家も街頭も一つも見えない。夜、酒を片手に宿のテラスに佇み、水盆に映る月を眺めていると、 王翰「涼州詞」 の一節なぞがふと口をついて出る。
  葡萄の美酒、夜光の杯
  飲まんと欲すれば、琵琶馬上に催す
  酔うて沙上に臥すとも、君笑う莫れ
  古来征戦幾人か回る
……その水月湖は昼間も静かに佇み、田辺さんの操る舟が引く航跡だけが鏡のような湖面に細く伸びていく。
  三方五湖は文字通り五つの湖が繋がり、さらに海とも結ばれている。水月湖から漕ぎ出した舟は海と繋がる湖と結ばれる細い水路を通って行く。水路を抜けると急に磯の香りが強くなる。心なしか湖面の温度も上がったように感じる。
  田辺さんは、要所要所で舟を止め、湖に伝わる逸話や冬に訪れる大鷲の話など披露してくれる。この三方には宇波西神社という古い社がある。ここには湖から引き上げられた王の面が奉納され、その面にまつわる物語を舞う「王の舞」という能が伝えられている。原始の姿をとどめる水月湖の湖上で、満月の晩に、この「王の舞」を奉納する……そんなことができたら、どんな幻想が掻き立てられるだろう。
  舟は湖を周遊した後に水月湖の緑に囲まれた岸辺に接岸する。そこは田辺家が所有する梅畑となった斜面で、今は遊休となったこの畑を使って、田辺さんは、子供たち(時には大人)が無垢な心で自然と親しむことのできる「あそぼーやの森」を構想している。ここがどんな場所になるのか、じつはぼくもアイデアを出して構想に参加している一員なので、実現の運びに詳しく紹介してみたいと思う。
  PAMCOでは、この数年続けてきた常神半島と水月湖をフィールドとしたシーカヤックツアーを今年は装備などを拡充し、また専従のスタッフを置いて「あそぼーや」事業として本格稼動した。そのツアーの楽しさが口コミやWEBを通じて広がり、この夏は600人以上ものお客さんを若狭の海と湖に案内したという。既成の「京都の奥座敷」という売りだけでは到底足を運ばなかったはずの「新規」のお客さんを集めてしまう田辺さんの努力と、そして若狭の自然の魅力は、今、日本の各地で暗中模索している地域ツーリズム運動の一つの光明といえるかもしれない。
  午前中、田辺さんの案内で湖面巡りをして、午後からはぼくがこの若狭の地でライフワークとしている不老不死伝説を巡る足跡ツアーとなった。参加者は件のRyuさんと滋賀県は木之本の造り酒屋の御曹司富田氏。この若狭の土地で交錯する徐福、八百比丘尼、空海という「不老不死」を共通点とする三者の足跡と、さらに「お水送り」といった不思議な行事や常神半島や遠敷(おにゅう)に配された曰くある神社など、掘り下げれば掘り下げるほど謎と興味が湧き出してくるミステリーがある。それをぼくはレイラインハンティングというサイトで探求しているのだが、その成果の一部をRyuさんや富田さんにも体験してもらおうという趣向だ。
  不老不死伝説の詳細はレイラインハンティングでも紹介しているし、近々学研のとある雑誌の連載のテーマにもする予定なので、そちらを参照していただければわかりやすいと思う。
  今回二人を案内して面白かったのは、プロガイドワークショップですでに若狭の海の魅力を痛いほど感じていたRyuさんが、今度は陸上で若狭の秘められた魅力に感動して「若狭には世界に誇れる観光資源が眠っているよ!」と目を輝かせていたことと、この若狭から至近の琵琶湖の辺に生まれ育った富田氏が不老不死伝説のコアとも言える遠敷の土地にまつわる話を思い出してしてくれたことだった。
  ぼく自身、若狭の自然と歴史に秘められた謎に魅了されて、この土地に通い続けているのだが、今回の若狭訪問によって、ますますこの土地との絆が深まった気がした。

 若狭から戻ると、今度は野暮用で茨城の実家に戻った。野暮用というのは、一つはお盆の帰省の際に故障してそのまま預けっぱなしにしていた車を引き取ること。そしてもう一つは、母校の高校で「職業講話」の講師を務めることだった。
  しかし、大学を出てからずっとフリーランスでやってきたぼくに、高校一年生が将来就きたい職業のイメージを固めるために講師を勤めて欲しいというのもまた乱暴な話だ。そもそも自分の職業……というより仕事の中味を説明するだけだって骨が折れるし、定職に就かずにその時々の興味に従ってテーマを決めてやってきたぼくの手法……生き方といってもいいかもしれないが……は、まるで流行のニートを勧めるようなものだろうに。
  ぼくが在学していた当時は文武両道を歌いながらもだいぶ武のほうが勝っていたバンカラな校風で鳴らした母校も今は品の良い進学校となっている。ぼくの頃の高校一年生なんて、まだ言葉もろくに話せない洟垂れ小僧がいいところだったのに、今の子供たちは礼儀正しく、言葉遣いも大人びていて、自分の昔を思い返すと教壇の上にいるのが恥ずかしいほどだった。
  じつはこの講話は、昨年も講師を頼まれて引き受けたのだが、さすがに「定職に就かなくたって人生は面白いんだよ」なんて焚きつける不良講師には、今年はお鉢は回ってこないと高を括っていた。なんで今年も呼ばれたのかと校長先生に聞いてみると、昨年の評判がすこぶる良かったとのこと……何が評価されるか、ほんとにこの世はわからない。

 そんなこんなであちこち出歩き、ようやく腰を落ち着けたと思ったら、ひどい風邪を引きこんでしまった。

 

----uchida

 

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05/08/25
夏の想い出

 お盆も過ぎて、朝晩はすっかり過ごしやすくなった。秋虫の鳴き声に冴え冴えとした満月の光、昼間の蝉時雨も頭の中まで浸透してくるようなミンミンゼミの喧しい響きから落ち着いた間断のある蜩の鳴き声に移って、気分もどことなく落ち着いたテンポに戻ってきた。
  今晩は台風が関東をうかがい、怪しげな静けさを間に挟みながら雨風が次第に強くなってきているが、これも明日の朝には通り過ぎて、その後には一層秋の気配が濃厚になっているだろう。
  この数年、 9月の半ばを過ぎても茹だるような暑さが続いて、長い夏にいささか辟易させられていたが、今年は、今になると猛暑が懐かしいほど。「正しい夏」が過ぎ去ってしまった寂しさを感じる……もしかしたら、何十年ぶりかにまともなお盆を過ごしたので、余計にそう感じるのかもしれないが。
  お盆の帰省から戻った翌日、田舎の涼しさに比べて東京がひどく蒸し暑かったのと、田舎で歳の近い従兄弟たちとはしゃぎすぎて疲れていたこともあったのだろう、朝からぐったりしていた子供が、突然吐きはじめた。吐いたせいで喉が渇いて麦茶や牛乳を飲むのだが、それをまたすぐにもどしてしまう。
  脱水が進むといけないのでスポーツドリンクを飲ませようと考えたのだが、ふと、こんなときには祖母は塩水を飲ませてくれたなと思い出して、薄い塩水を作って飲ませてみた。
  嫌がるかと思ったが、どうやら体が求めているようで、顔をしかめながらもゆっくりゆっくり一口ずつ飲んでいく。そして、コップに半分ほどの塩水を飲み干すと、見る間に血色が戻ってきて、すぐに元気になった。
  たぶん、スポーツドリンクではこんなに劇的に効くことはなかっただろう……昔の人のやり方は、やはり理にかなっていると改めて思うと同時に、お盆に帰省して、亡くなった祖母や父たちがとても身近に感じられたお陰だなと、妙に納得してしまった。

 先週末は友人に誘われて西伊豆へ行った。新宿でアウトドアショップの店長をしていた安達さんが奥さんの実家の近くである西伊豆町の浮島という入り江の近くに住んでいる。
  その漁師向けの古い住宅を改装したエスニックムード満点の離れに泊めてもらって、二日間、浮島の海水浴場から漕ぎ出して、リアス式の海岸を海から巡り、洞窟を抜け、人のいない海岸に上陸して寛いだ。
  伊豆といえば、陸のほうは二輪のインプレッションやツーリングで馴染みのあるところだが、海に出たのは初めてだった。
  どうしても東京から近い観光地のイメージがあって、渋滞と芋を洗うような海水浴場の混雑を思い浮かべてしまうが、海からの伊豆は別天地だった。水もきれいで、色とりどりの魚を間近に見ることができる。人家や人のいる海岸が見えないところを漕いでいると、どこか遠い外国の海を漂っているような気がする。そういえば、バハカリフォルニアの海もすばらしいと聞いた。ぼくは、何度もバハ二足を運んでいるが、カクタスが林立する乾いた砂漠しか知らない。ただ、陸から海を見て、その恐ろしいほどの青さには感激した。伊豆の日本離れした風景の中を行きながら、今度はバハの海を漕いでみたいと思った。
  海から上がり、蜩の鳴き声に包まれながらキンと冷えたビールで喉を潤していると、今年は正しい夏を過ごしたなぁ……と、なんだかとてもうれしくなった。

 

----uchida

 

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05/08/12
お盆だから!?

 お盆の入りの深夜、ここ鹿島灘の海岸に近い田舎町では、間断のない稲光と地響きを伴った雷鳴が鳴り響いている。
 じつに久しぶりにお盆を実家で過ごすことになり、のんびりしつつまっとうに墓参りをしようと思ってやって来たのだけれど、「波乱」含みのおかしな雰囲気だ。
  まず、常磐自動車道を普段なら千代田石岡ICで降りるところを、今日はその一つ手前の土浦北ICで降りた。べつに理由があるわけでなく、ただ「なんとなく」いつもと違うルートで祖先の霊が待受ける田舎に戻ってみようという気になったのだ。
  高速道路から、国道6号線に入り、片側二車線の道が一車線に合流するちょうどその合流地点に差し掛かり、右車線に合流しようとしたところで、突然、車が異常な振動に襲われて、ストップしてしまった。
  エンジンを再スタートして、ギアを繋ごうとするが、クラッチペダルがスカスカでクラッチを切ることができない。どうやらワイヤーが切れてしまったようだ。JAFを呼び、車はそのまま整備工場へと運ばれていき、こちらは実家から迎えに来てくれた車に乗って実家へ向かった。
  それにしても、あのままいつものICまで高速道路を走っていたら、かなりなハイペースで追い越し車線を飛ばしていた車がどうなっていたかと思うと背筋が寒くなる。また、国道の車線が一つになってからストップしていたら、大渋滞の原因になっていたし、もう少し手前で止まってしまったら、後続車に追突される危険性も高かった。際どく危機を回避していたことを、稲妻をぼんやり眺めているうちに気がついて、先祖に守られているのだろうか……などと考えてみたりする。
  車が止まってしまった場所が伯父の家に近いところだったので、距離のあるディーラーまで運ぶより、とりあえずそこで預かってもらえればと電話するも相手は留守番電話で、仕方なくJAFに車を託したのだが、実家に辿り着いてみると、件の伯父はこちらにいた。数日前に母に電話をしたときには、今年のお盆は伯父の一家は来る予定がないと言っていたのだが……。
 先週は今年初めてのツーリングマップルの取材で南信濃から奥三河を巡っていたが、このときは取材用に借りていたオーストリア製の高性能バイクのリアブレーキがフェードして、山道で危ない目に遭った。その帰りには、中央道で雷雨に遭った。この時は、何故か他人事のような感じで実感に乏しく、メーカーのメカニックにトラブルを報告したときに、「よくリアがフェードして大丈夫でしたね」と感心されて、事態の深刻さに気づかされた。
  運が良いといえばいいのか、不幸中の幸いといえばいいのか……。
  久しぶりに親戚が顔を合わせて夕食を共にして昔話に花を咲かせたが、不意に伯父が「おまえはおばあちゃん子だったよなぁ」としみじみ言った。
  祖母は、盆や彼岸には、ぼくを伴って墓参りに行き、お参りの作法や先祖に感謝する気持ちが大切だとよく説いていた。
  盆暮れにまともに帰省せず、ようやく顔を見せたぼくに、祖母はほんのちょっとお灸をすえたのかもしれない。 

 

----uchida

 

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05/07/31
体調不良

  今年の夏もまた天候不順や天災が続くのだろうか? 
  梅雨明けしたかと思ったら夏らしくない涼しい日が続き、さらに台風が関東を掠めて通り過ぎたら一気に猛暑となり、そして今度はまた梅雨のような気圧配置に……。
  人のコンディションは当然天候に左右されるから、こう変動が激しいとバイオリズムもおかしくなってしまう。
  台風一過の猛暑到来の翌日、久しぶりにオートバイを走らせて都内を抜け、利根川の河原へと向かった。
  往路、普段は渋滞などない東八道路が混雑しているので何かと思ったら、なんと警視庁府中運転免許試験場の路上検定車が激しく追突され大破していた。パトカーが何台も止まり、救急車も駆けつけて、たいへんな騒ぎになっていた。よく確認できなかったが、大破した試験車の後ろに停車していた別な試験車が追突したようだった。
  復路、今度は練馬区内の道で宅配のトラックが路肩に停車していたバンに追突して、バンのドライバーは意識を失い、追突した運転手は、バンのウインドウを叩いて「大丈夫ですか! 大丈夫ですか!」と連呼している。こちらは対向車線側にいるのですぐに救援には行けず、渋滞の列に並んで見ていると事故車の横に並んだ運転者は意地悪そうな笑いを浮かべながら「大丈夫なわけねぇだろ」と車から降りようともせず呟いている(口の動きではっきりと言葉がわかる)。
  照りつける太陽とアスファルトの輻射熱でぼうっとしながら事故の光景を眺めていると、その光景が自分のふやけた脳が生み出した幻影ではないかと思えてくる。
  1時間半かかって都内を抜け、利根川の河原にたどり着くが、こちらは遮るものがまるでない平地で、ただ立っているだけで蒸発してしまいそうだ。
  小一時間、撮影と試乗をこなしただけで、明らかに熱中症の前駆的な症状が現れてくる。電解質を含んだ水分を十分にとっているけれど、それを上回る汗をかいて、今度は消化器が悲鳴をあげる。そして、脳があまりにも熱くなりすぎて、運動神経がおかしくなってくる。
  次の予定もあったので、慌てて切り上げて、途中の自販機でミネラルウォーターを買って、頭から被った。脳が冷やされた途端、意識がはっきりして、体にも力が蘇った。山道を走っているのなら、沢や湧き水でこうした休息がとれるけれど、都会ではそれが自販機なのが哀しい。それにしても、このミネラルウォーターでのクールダウンがなかったら、沿道で目撃した事故の当事者になってしまっていたかもしれない……。
  その日は利根川から戻ると、シャワーを浴びて、食事を済ませ、夕方からの打ち合わせ兼飲み会に出かけていった。
  熱中症の洗礼を受けていたので、我がCPUは熱暴走気味で、マジメな話をしているのに、場違いなギャグをかまして座を白けさせてしまう……。飲み会に移ると、その暴走具合がちょうど良く、えらく饒舌に……。
  そこまでは、体調不良もまだ序の口だった。終電に乗って帰宅し、着の身着のままで床に寝て、翌朝起きると、無性に体中が痒い。気も狂わんばかりに全身を掻き毟っていると、どんどん掻いた部分がミミズ腫れに……。疲れが溜まっていたところに、急に寒暖の差があって、アレルギーを起こしたのだが、ふいに昔の嫌な記憶が蘇った。
  20年前、シルクロードを巡った際、熱砂のタクラマカンで酷い下痢に見舞われた。酷暑の中、脱水症状がおさまらず、高熱も続いて、意識が朦朧とする。ちょうどパミールへ向かう数日前で、重症の熱中症だから氷点下のパミールへ行けば回復するだろうと思った。
  中国西域の町カシュガルから一気に高度を上げていくと、ぐんぐん気温が下がってくる。現地で渡された得体の知れない薬の効果もあったのか、寒くなるにつれて症状は改善していった。
  そして、万年雪のピークに囲まれた盆地に緑が広がり、石造りの街が佇むタシュクルガンではすっかり回復して、桃源郷のような景色を楽しんだ。当時、外国人に解放されたばかりの中パ国境クンジュラブ峠まで往復し、まったくの健康体に戻ったつもりで、再びカシュガルへと下っていった。
  そして、カシュガルについて一夜明けると、全身を覆う猛烈な痒みに襲われた。脇の下とか股の内側といった柔らかい部分から始まって、そこを掻き毟っているうちに、どんどん腫れが広がり、ついには全身が風船のようにパンパンに膨らんでしまった。
  このときの旅に同行していた新疆政府のケースオフィサーは、ぼくのその状態を見て、血相を変えた。そして、宿泊地の近くの病院の医者を連れてきた。そのウイグル人の街医者は肝炎と診断した。そして、一刻も早く設備の整った病院に行って治療をしなければ大変だと言う。
  そのまま新疆人民政府の車に乗せられて、ぼくは200km先にある人民解放軍の病院に運ばれた。天山南路を凄まじいスピードで飛ばす車から飛び去るタクラマカン砂漠の景色を眺めながら、これがぼくが目にする最期の光景になるのだろうかと思った。
  人民解放軍の病院までかろうじて意識を保ったまま辿り着き、抗日戦争で片足を失ったというおばあちゃん女医さんに診察してもらうと、彼女はいとも簡単に薬疹と診断して、解毒剤のようなものを処方してくれた。それを静脈注射されると、たちどころに腫れは引き、耐え難い痒みも収まった。
  それから数日、ダメージを受けた肝臓を癒すためにこの病院に入院して三食ヨーグルトで過ごした。
  その後、シルクロードを巡る旅から戻って、しばらくは何事もなく過ぎていったのだが……。
  帰国して翌年、夏にとても暑い日があった。その翌日、急に気温が下がり、さらにその翌日、また暑さが戻った。その朝、脇の下から始まった気の狂いそうな痒みが全身に広がり、たちまち、あのシルクロードでの悪夢の再現となった。
  これは数日安静にしていたら浮腫みも引いたが、それから数年は、同じような気温の変動があると、必ずあの肝炎を疑われた症状が再現された。
  それも、10年も過ぎた頃には、帰国した後にも同じような症状に見舞われたことも、「喉元過ぎれば……」で忘れてしまった。
  そして、先日、耐え難い痒みにのたうちまわりながら、あの最期の光景かもしれないと見やったタクラマカンの風景を思い出した。
  幸い痒みも腫れも半日で引き、体が風船のように浮腫んでしまうこともなかったが、あの不安な気持ちで眺めたタクラマカンの光景や、その後の再発を思い出して、嫌な気分になった。
  どうやら、体は過去の経験をしっかり覚えていて、いろいろ条件が重なったときにそれを再現してしまうものらしい。あるいは、ぼくが歳をとって体力や抵抗力が衰えたのに乗じて、そんな記憶がまたくすぶり始めたのかもしれない。それにしても、天候不良が体調不良のトリガーになってしまうのは辛い。

 

----uchida

 

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05/07/20
リニューアル!!

 ずっと構想を練り続け、昨年末から青写真を作り始め、そして先月末から作業にとりかかった新生OBTが、ようやく公開にたどり着いた。
  1997年の9月にそれまで関わっていたゲーム開発の仕事が一段落ついて、24時間臨戦態勢ともいえるパラノイア的な環境からふっと抜け出したとき、何か一つ自分のセンスだけで完結させる世界を作りたいと思った。
  ぼくがしばらく身を置いていたゲームの世界は、瞬間瞬間に技術革新が生まれ、またハードウェアが恐ろしいスピードで進歩していく中で、高度に分業化されたパートが協力しあって途方もない世界を作り上げるというものだった。自分の着想がデザイナーやプログラマーとの協同の中で、想像もしなかったようなリアルな3Dとして表現されていくプロセスは、とてもスリリングであり、それにジャンキーのように魅了された。
  そんなゲームの協業と比べると、個人でできることは限られている。しかし、自己だけで完結し、表現しきる世界というのも、それはとても大切なものではないかとデジタルの最前線から一歩引いたスタンスに立ったときに思ったのだった。
  そして、ぼくが自分ひとりで表現しきることといえば、それは自分のアウトドア体験を綴ることだった。高校時代に登山の世界に足を踏み入れ、20代半ばまでは憑かれたように山に登った。そして、自然にアウトドアライターという仕事に就くことになった。
  それが気がつけば、いつのまにかデジタルの大波に飲み込まれ、その可能性に魅了されて、すっかりPCのモニタに向かい合うインドア生活が身についてしまっていた。
  チームから離れて一匹狼に戻ったとき、ぼくは自分のスタンスを失いかけた。だが、再び自然に目を向け、その懐に飛び込んでいくことで、ぼくは安らぎと余裕を取り戻した。
  自分を育ててくれたのは自然だ。そして自然との共生がしっかりできてこそ、個人の心も社会も本当の意味で豊かになれる。
  そんな信念を再認識し、それを表現する場としてぼくはWWWを選んだ。
  OBTの8年間は、トップページの序文にも記した通り、様々なすばらしいコミュニケーションをぼくにもたらしてくれた。
  昨年の10月、OBTから派生する形で出来上がった「LEYLINEHUNTING」の若狭ツアーに、G-Outfitter野遊び屋の主催者である吉川氏が参加してくれた。彼は、OBT開設の初期の頃からインタラクティヴに付き合ってきた仲である。
  自らアウトドアアクティビティのアウトフィッターを運営する彼と、様々な話をする中で、これからは志を同じくする仲間同士がコラボレーションしながら、ネットを中心としたメディアで情報発信し、さらにみんなが「自然と人との共生を実感できる」アクティビティを提供できるようにしていこうと意見がまとまった。
  その後、12月の「四国GPSクエスト」や今年2月の「八ヶ岳スノーシューツアー」を共催し、野遊び屋が主催する6月の「シーカヤックミーティング」にはOBTでの呼びかけに応じてくれたみんなと一緒に参加した。
  そんな実践を繰り返すうち、すでにOBTを通じて交流を深めていた若狭のアウトフィッター「あそぼーや」や、OBTコミュニティの最古参メンバーであるニュージーランドのRyu.Takahashi氏とも、積極的なコラボレーションを行って、実践の機会を提供していこうと話がまとまった。
  不思議なもので、メディアとしての充実とリアルな世界での実践をすすめていこうと決心し、アクションを起こしたとたん、さらに多くの仲間が集まって、アイデアがどんどん膨らみ始めた。
  ぼくの内的な世界を表現する場として始まったOBTは、今、もっと広く公共性を持ったモノに進化しようとしている。
  これからOBTを軸にした展開がどのように発展していくのか、想像できないが、これまでの8年間と同じように、自由に柔軟に、「人と自然との共生」に寄与する場でありアクションとして、展開し続けていきたいと思う。

―― uchida
 

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05/06/13
阿武隈

 昨日は早朝に東京を出発して阿武隈の山々をオートバイで巡った。茨城県の北部から福島にかけて標高1000mにも満たない小山が連なる山地。高さはない代わりに途方もない広がりがあって、小高いピークに登って見渡すと、低木と草原を載せた緩やかなカーブの山並みが見渡す限り続いている。 高山のピークを目指すのもいいけれど、こうした広がりのある山域を気ままに辿るのも気分がいい。何より阿武隈の山々と向き合うと心の底から落ち着く。ぼくが高校時代に始めて登山を体験したのは、この阿武隈の一角だから、故郷に帰ったようで安心するということもある。でも、それ以上に、日本の「山」を象徴する風景や雰囲気がこの阿武隈にあるからだろう。日本人として血に刻まれた記憶が、阿武隈の山に接することで呼び起こされ、郷愁を掻き立てるのだろう。
  じつは、同じようにそこはかとない郷愁を感じさせる山並みが各地にある。東北なら北上山地、信州の後立山連峰に対峙する東山の連山、あるいは高山から郡上八幡へ抜ける間の優しく明るい山並み、四国や中国のカルスト台地、熊野の果無山脈、そして九州の九重……。
  北アルプスや八ヶ岳といった高山がピークを征服することを目的としたスポーツの対象であったり、山岳信仰の対象として同じくピークを目指す修行の場であったりして、天にそそり立つ「一点」にすべてが集約されるのに対して、阿武隈のような場所は目的など持たずにただ心を開きに訪れるのが似合う。そして、阿武隈のような広がりを持った山地では、神聖が集約する高山に対して、それが拡散して偏在する場所ともいえる。
  何にしろ、集約されて何かの密度が高まった場所は緊張感があり、そこに居るあるいは向かう人間のテンションは高まる。平地になると密度は薄まりすぎて、緊張感がなくなってしまう。阿武隈のような場所はちょうどその中間にあって、緊張と弛緩がちょうどいいバランスにある。
  今回はこの阿武隈の山の中に点在する7ヵ所のポイントを巡るのが目的だった。巨石遺構に関係のあるその7ヵ所を結ぶと、大地に大きな北斗七星が描き出される。それぞれの場所が実際にどんなところで、そこに何があるのか確かめることが目的だった。でも、抜けるような青空と間近に行過ぎる雲と追いかけっこするように草原の道を駆け抜けていくと、古代だか超古代だかの謎なんてどうでもいいことに思えてくる。北斗七星の一つ一つの星に対応する7ヵ所のポイントはそれぞれ特徴があるが、走り抜ける途中の丘の上からあたりを見渡すと、そこらじゅうに愛嬌のあるピークがあって、それぞれが何か意味を秘めて、密やかに語りかけてきているように思える。
  このあたりに太古か古代に住んでいた人たちが、大陸から渡来してきた陰陽道もしくはその原型となる思想に基づいて大地に北斗七星を描き、さらにその先にある北極星を指し示した……といった推論を確かめにやってきて、北極星に位置する面白い場所も見つけたりしたのだが、たおやかな山並みに抱かれているうちに、めっきり興奮が醒めて、どうでもいいことに思えてきた。
  阿武隈の丘の上で眺める星空は壮絶だ。目の前で眩しく輝く星星を見た古代人たちは、夜が開けて大地を見回して、そこに天に散らばる星と同じように散らばる丘を見て、ほんの少し酔狂を起こしたのだろう。一つ一つの丘をそれに対応する天の星に見立てて、頂上の岩盤を露出させて目印を刻んだ。そしてまた夜の星空を眺めて、それと自分たちが刻んだ大地の星とを見比べて悦に入っていたに違いない。
  気候が温暖で、食料も豊富なこの土地では、そんな酔狂にうつつをぬかす暇も体力もそして想像力もあっただろう。
  なんだか、山を巡るうちに、陰陽道との因果関係やら太古の思想体系やらと、理屈を考えていた自分が途方もなく愚かに思えてきた。唯一絶対神ではなく、もっとずっと低級というか穏やかで角がとれていて、人間に近い親しみやすい八百万の神々をイメージしたぼくたちの祖先は、まさにこんな自然をそのまま神話化したのだろう。
  ここには最も崇めるべき抜きん出た聖地などどこにもないけれど、一つ一つの丘がちょっぴり神聖で、そこに立ったらペコリと頭の一つも下げたくなるようなところで、だからこそその自然を大切にしたくなるような場所といえるだろう。 

―― uchida
 

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05/06/09
アウトドア人種

  今月3日から6日まで、四国香川の「野遊び屋」にご厄介になって、「シーカヤックミーティング」に参加してきた。前回ぼくが参加したのは2001年の第一回のイベント。特集のコーナーでもそのときの模様を紹介したが、あれから4年ぶりの参加だった。
  前回は岡山県の牛窓で、地元のペンション「黒潮丸」が協力してのコラボレーションスタイルだったが、その後、主催者のG-Outfitterが「野遊び 屋」として四国に拠点を築き、ここが文字通りベースとなった。全国から50人あまりのビギナーからベテランまで多彩なシーカヤッカーが終結し、天気に恵ま れ、湖のように凪いだ瀬戸内海に浮かんで、のんびりと漂った。
  前回、アーバンアウトドアライフという話を書いたが、フィールドに出て風に吹かれると、「やっぱり大自然の中にいるのがいちばん」だと思う。たぶんぼくは 修行が足りず、芦沢一洋さんのように都会にあっても大自然と自分が繋がっているという意識をまだ明確に持てるようにはなっていないのだろう
  海に浮かんでぼんやりしていると、「ようやく自分の居場所に帰ってきた」という、なんともいえない安堵感に包まれる。
  その昔、2ヶ月あまりのシルクロードの旅から帰ってきて、現地で出会った少数民族運動会(中国新疆のローカルオリンピックのようなもの)の紹介記事を『ス ポーツ批評』という雑誌に書かせてもらった。そのときの担当編集者が日本人として初めてドーバー海峡横断を成し遂げた大貫映子さんで、初めて会った際に、 大陸ボケをひきずっていたぼくが「東京の人ごみの中にいると、ペースが合わなくてほとんど廃人ですよ」とぼくが言ったら、彼女も「私もそう。自然の中にい ないと自分じゃないみたいなんです」と朗らかに笑って、いっぺんで心が通い合った気がした。
  大貫さんにしろぼくにしろ、アウトドアにいてなにかしら体を動かしていないと調子が出ないという「人種」なのだろう。そういう人種にとってアウトドアスポーツは単なるアクティビティではなくて、生活の主体、体や精神の拠り所なのだ。
  シーカヤックミーティングで海に出たみんなは、海上やキャンプ地の砂浜で、みんな生き生きとしていた。それぞれに職業や立場は違うけれど、みんな自然から疎外されるとストレスがたまってしまう「アウトドア人種」なんだなとふと思った。
  今、そんなアウトドア人種のための拠点が増えている。単にサービスを提供するだけの観光業ではなく、ライフスタイルとしてのアウトドアをきっちりと体験で きるプログラムを持ったアウトフィッターや宿。シーカヤックやトレッキングが未体験でも、基本技術はもちろん楽しみ方まできっちり伝授して、さりげなくサ ポートしてくれる。またベテランなら気の置けない「たまり場」的に、そこで仲間たちと交流できる。
  いずれも個々のアウトフィッターや宿が自分たちの持ち味を最大限に出すように工夫しているのだが、最近、全国に散らばるそうした拠点が連携するようになっ てきた。連携といっても業務提携とか協会を作るといった堅苦しいものではなく、それぞれのスタッフが互いのフィールドを訪ねて個性の異なる自然を満喫し、 そのすばらしさを訪れたお客さんにも紹介するといった形だ。この連携の中で、どこか一つのアウトフィッターを訪れたお客さんが、また別なフィールドの魅力 を感じて、そこに足を運ぶ……そんなふうにして日本全国の自然を堪能して、「アウトドア人種」として目覚めていく。そんないい感じの循環も生まれている。
  ぼくもいずれは気に入った場所に自分なりのベースを築き、そこをアウトドア人種のたまり場にしたいと思う。以前は、単に自分のライフスタイルを実現する場 としてのカントリーライフをイメージしていた。自然の中に身を置いて自分だけを開放できる世界への憧れ、隠遁生活ともいえるそんなスタイルは、じつは歪な のではないか。自然と共生するためには心が頑なではだめだ。そして心を開くということは人も受け入れるということではないか。最近、アウトドア人種との交 流が増えて深まるにつれて、そんなふうに思えてきた。
  ぼくなりのアウトドア人種たちが交流できるベースが実現するのはまだ先になりそうだが、今お勧めのベースを紹介しておこう。

「野遊び屋」
http://www.noasobiya.jp/noasobi.shtml
「あそぼーや」
http://www.pamco-net.com/asobo-ya/
「エイベルタズマンアドベンチャーズ」
http://www.onjix.com/ata/
「漕店」
http://www.h3.dion.ne.jp/~souten/

―― uchida

 

 

 

 

 

 

BACK NUMBER

◆2005年
12/17 ついつい本気になる
12/05 風景が忍び込むとき
12/01 シャーペンの人
11/27 Coincidence
11/13 ち、はじめてこおる
11/07 ブログの怖さ
09/29 あっちこっち
08/25 夏の想い出
08/12 お盆だから!?
07/31 体調不良
07/20 リニューアル!!
06/13 阿武隈
06/09 アウトドア人種
05/25 アーバンアウトドアライフ
05/21 蝶が岳の夜明け
05/07 人間のペース
03/19 パウロ・コエーリョ
03/13 鏡心
02/05 森の生活
01/24 虫の知らせ
01/16 アウトドアの技術革新
01/14 生きる力
01/10 2005年

◆2004年
12/25 海
12/21 1ヶ月雑感
11/19 ピュアな精神
11/17 夕焼け
11/11 自殺
11/06 若狭不老不死伝説
11/05 MTB改街乗りバイク
10/15 晩秋の台風
10/06 誤算
10/05 停滞
09/27 「自然」と会話できる人
09/15 焦点
09/01 旅
07/31 即身成仏
07/25 高原めぐり
07/07 事故?
07/01 世界遺産
06/28 振り返るということ
06/21 宿神
06/15 精霊の王
06/08 京都
05/22 ソーシャル・ネットワーク
05/18 コトダマ
05/07 シダレアカシデ
04/27 聖域
04/09 空海と高野山展
03/23 量り売り
02/19 フィールドブーツ
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02/10 エスケープを考えない...
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